園児はいろんなものに興味があり、見ている。
園児は目を見て話す。成長するにつれ、というか大人になって、それなりの(悪)知恵や作戦や感情が身についてくると、目を見ないで話すことを覚えてしまう。
子どもたちとの関わりで一番の違いは、目をみて話してくれること。なので、こちらも目を見て話す。カメラのレンズを向けても、キラキラとした瞳が輝いている。
先月までの「私の履歴書」は画家の絹谷幸二さん。ある日、長嶋茂雄さん経由で、身体に近い内角、遠い外角の球が打てないと一時帰国した松井選手から相談を受けた際に、「画家にとってもカンバスの下の隅は書きづらい。そんな時はカンバスを上に持ち上げる。膝を曲げてメノウ位置を3センチほど下げてみてください」とアドバイスした。翌年、松井選手は30本のホームランをうった、との話を読みました。彼が、画家にアドバイスを求めたのも素晴らしいし、その答えを実行して結果をだしたのも素晴らしい。アドバイスが”視点”を変えること、苦手は誰にでもあることを、それを克服する手立ては必ずある、とういことが伝わってきて、朝刊を読んだあとは”なるほど”と思った。また、この日の記事は、「物を見ているのは目ではない。見えているのは目の奥にある柔らかな脳なのであり、割れたガラス片を見ただけで頭が痛くなる気がするのはそのためだ。「見る」とは、その場の状況をとらえて考えることである、とその日の履歴書は結んでいる。0歳児さんがハイハイしながらきょろきょろあたりを見渡し、興味のあるものを見つけてハイハイ前進するのは、見てその状況をとらえて想像力を膨らませているわけです。この心はずっと持っていてほしい、そんな環境をそろえていきたいと思います。