乳幼児への言葉かけについては、実は深い意味がある。
高齢者の身体能力を体験するために、足首におもりをつけたり、視界を狭くするメガネを掛けたりする。そうすると、ゆっくり歩かざるを得ない理由がわかるし、段差を昇り降りするのが危険だから、更に行動が慎重でゆっくりになったりする。段差を登った後にバランスを崩しても、身体がゆうことを聞かないと、倒れてしまい、文字通り痛い思いをする。そうすると、ますます行動が慎重になり、スピードが上がらない。
言葉が分からないつらさは、外国に行けば簡単に体験できる。そうすと、非言語の”勘”を研ぎ澄まし、周りの人の行動や、行動パターンから、その言葉の意味を母国語で理解し、自分の辞書に組み込む。それはとても時間のかかる作業になる。それが楽しければ、海外旅行はすきになり、いろんなところに行ってみたくなる。「人にこんなことを頼むときは、こういう言い方をするのを何度か聞いたことがある、だからその発音をまねて、自分も言ってみよう」と思って勇気を出して、その言葉を発してみる。予想した反応があると、”お、通じた”と自信につながり、”今度も、使てみよう”とうれしくなる。
外国語の勉強と、園児のことばを身に着けるプロセスは同じだと思う。通じた、反応してくれた、という経験が自信になり、また話したくなる。なのに、聞こえているのに大人から何の反応もないと、伝わらなかったと思い、自信を失う。そして、最後の手段、「泣く」という不快を表したり、大人の注意をひく、という行動に行き着く。
言葉を身に着けた年齢の園児でも、気分次第で言葉ではなくて、走り回ったり、危ないことをしたり、粗暴な行動に出たりして、大人を困らせる。どう表現したらいいかわからず、困っているので、「困っているんだ」との全身を使っての抗議が「この子は困った子だ」と大人には180度反対の意味にとられてしまう。
言葉も身体を使っての意志表明も、全て「脳」の「指令」によるもの。走り回るには理由があり、ジャンプするには理由があり、それを「こどば」に訳して一人ひとりの子どもの行動の「わけ」を理解することが、お互いの解決には欠かせない、という意味の本を4冊購入し、保育教諭と読み始めました。そうすると、これは全てのことも、大人に当てはまる理論であり、職員間のコミュニケーションの向上にも役立つな、と思っています。