兼六園の中を通って(もちろん無料の時代です)中学(紫錦台中学です)に通っていたのが45年前。 7年前から兼六園のそばに住んでいます。
兼六園を散策すると(たまに、ですが。無料開放の日がほとんど)、歴史を感じます。 お城の方は、すごいな、と思いますが、再建された建物なので、それはいい方は不適切ですがディズニーランドのお城を見るようにするように頭を切り替えています。 ここに、これだけの建物があったのは、すごいな、と。でも、目の前の建物は最近復元されたものだ、と。
欧州に来ると、歴史を肌レベルで感じます。本物の歴史です。幾度もの戦争で破壊されたりしていても、オリジナルな部分が残っています。 今回滞在しているホテルも1900年代の初頭に建築され、リノベを繰り返しているものです。快適です。現在の基準でも。特に、私は快適性と衛生面にはうるさいのですが。 大聖堂、教会、列車から見える田園地帯。 この地で、いろんな争いがあり、文化が栄え、人々が行き交い、楽しいこと、つらいことがあったことを思います。 街中にある広場、それを囲む建物。 その時代時代にそれぞれの暮らしがあり、政治があり、絵や音楽といった芸術があり、人々の暮らしがあったことを感じます。
そんな歴史のある欧州のこの地で、教育の、幼児教育から高等教育まで、位置付けはどうでしょうか? いったい、何を見つけにイタリア中部の田舎町のレッジョ・エミリア市くんだりまで自分は来たのでしょうか? ただ、園見学や保育者の解説や質疑応答では掴めない、”なぜ”こうなっていて、どこに向かっているのか。それは、普遍的なもので、和光の園児の園での毎日にどう織り込んでいけばいいのか、そんなことを”ずいぶん”大げさに考えながらの2日目でありました。
イタリア語は中国語のように”うるさい”です。みんな町中で怒ってるみたいですが、中国と同じくリズムや抑揚があり、だんだん気にならなくなりました。 テレビで英語チャネルを観ると、明日に迫った大統領選挙投票日に向けた報道のみ。 イタリアでアメリカ大統領選挙番組を見ている、これも21世紀型社会の現実で、分かるだけ幸せだ、と思います。