人は、意図を持って行動を起こしていると美しい。
様々な興味や関心ごとがあり、その行く先や起こりうることに興味を持って、意図をもって調べたり、行ってみたり、言ってみたり、聞いてみたり。意図は”やる気”と翻訳されるかもしれない。”意図をもつ”の反対は”なんとなく”。”なんとなく”が本人ひとりに止まっていれば、それ自体は害は少ないが、”なんとなく”が伝播すると、集団としての”なんとなく”になり”やる気のない”態度や行動になる。 意図を持って行動する、例えば会社を経営するなら、それは会社の方針や目標や倫理や理念という形で、一緒に働く仲間に伝え、賛同を得て、意図が実現され、会社の社会的な存在価値が生まれ、長続きする。
レッジョ・エミリアのアジア大会の初日。現地から、教育コーディネーターとアトリエスタ(芸術指導員)による”意図をもった”乳幼児教育とは何か、意図をカリキュラムに反映させるプロセスについての解説があった。
あれと、これが結びつくと、こうなって・・・と意図を持った刺激を与えられた乳児はいろんな発見をして、いろんな想像をして、試してみる。その経験の蓄積が乳児の頭の中にある直感的な気づきを整理して、関連付けて、より大きな意味を持たせるように働く。乳幼児教育はまさに、意図をもって子供と接し、子供が自ら考える力を発揮する環境を用意して、子供の能力が伸びることにある。 「見守る保育」は保育が単なる放し飼いになるり、放し飼いになっていることに保育者が自己満足に陥る危険性を内在している。自分たちで選んだ遊びを自由にさせている、は放し飼いに等しい。そこには意図がないから。
午前の質疑応答の中で、幼児教育における”自由と規則”の線引きについての質問があった。アトリエスタは、まことにアトリエスタらしい答えをしたので、うなってしまった(イタリア語が英語に訳された答えだったので、うなるには時間差がありましたが)。 「画用紙に好きな絵を描いていいよ。」と園児に伝えて画用紙と絵の具を渡すと、園児は思い思いの絵を画用紙に書く。画用紙という”規制”の中で、思う存分の自己表現を行う。ただ、画用紙に描いたことの意味は、画用紙という物理的な”規制”の制約は全く受けず、絵をみた人(大人でも、子供でも)の心の中で、いろんな意味をもつ」という答え。画用紙の大きさだけではなく、絵の具の種類や筆の数にも限りはあるけど、園児にとっては多くの場合なんの不都合でもなく、自己表現の作業に没頭する。
幼児教育にカリキュラムは馴染まない、という考えもある。それはカリキュラムを単なる時間割と理解すればの話で、意図のない教育・保育はあり得ない。意図をもって、子供と接しないことは、画用紙を渡して絵の具を渡さないことと同じ。子供の自由な発想は放置すれば伸びるのではなく、関連性を持たせることや整理することを示唆することにより次の段階へ進む。記憶ではなく、応用。答えではなく、答えを導くプロセスが大切。
といった、とても深くて濃い話を1日拝聴し、和光でいま起こっていること、起こってはいけないこと、もっと起こさなければならなこと、が自分の中でだんだん整理されてきた。明日の講義が楽しみです。