今日の話は、まったくの、私事です。
昨日、朝10時頃に叔母から着信。こんな時は、いい話ではない。
4年半前に亡くなった母の大親友の死亡案内が地元紙に載っていたけど読んだか?という連絡。地元紙を購読していないので、知らなかった。その瞬間から、悲しさがこみあげてきて暫くの間、PCの画面を見つめていました。
人が想い出せる一番最初の記憶は3歳のころ、と乳児保育の専門書には書いてあります。私の場合、この母の大親友の家に預かってもらい、遊んだ記憶が最も幼いころの記憶。近江町市場にある蒲鉾屋さんです。練り物の機械が階段の下にあり、その機会の中を階段の上から眺めていたことを思い出します。今も、お店はあります。百万石うどんのおとなりです。母が入院しているときに、昔話を二人でタップリしていました。兼六園の小立野側に今もある「うどん屋」さんに学校の帰りによって食事をした思い出(学校では禁止されていたとか・・・、横で聞いていて大笑いしたことを想い出します。私が高校2年の時に初めて海外に出た時も羽田(当時は成田がなかった)まで見送りに来てくれたり、人生の節目節目でいろいろアドバイスいただいたり、お祝いをいただいたり、本当にお世話になった「はべんやのおばちゃん」でした。
お通やは7時から。5時半に園を出て、着替えて、駅西の斎場へ。お焼香の後、写真を見つめているといろいろ思い出し、お経の上がっている間も、いろいろ思い出し。ご長男が書かれたあいさつ文には、
「自分のことは二の次三の次で、周りのためにと心を尽くしていた母・・・どんな時でも笑顔を絶やさず、前を見据えて歩み進めていた母・・・」と、そのままの姿が浮かぶ言葉でした。車はいつもジャガーというおしゃれなおばちゃんでした。
帰りにおばちゃんの家の長土塀を通り、しんみりとした夜を過ごしました。